教育百年の亡国の計

 −−独立行政法人化、学費値上げ、奨学金有利子化の連環を批判する−−by 高杉公望)

 

1 はじめに

 大学改革をめぐる問題群には、じつにさまざまのことが錯綜している。とくに大きな要因だけでも三つの系統がある。

 第一に少子化によって現在六百ほどある国公私立大学が過剰化する問題。それは、誰でも大学にはいれる時代になったことによる大学の大衆化や学力低下の問題につながっている。大学にはすべて無試験ではいれるかわりに、教育カリキュラムを時代に適合したものにしていくとともに卒業は厳格にする、といった全国一律の抜本的な改革が必要だ。

 第二に日本では奨学金制度が貧弱なうえに国立大学の学費も年々値上げされ、学生や親の学費負担が先進諸国のなかで突出して高くなる一方であるという問題。それは、高等研究・教育への財政支出が先進諸国のなかでは半分しかないという問題につながっている。

 第三に「国際競争力」が問われるような先端的研究・教育の物質的諸条件を独占してきた東京大学・旧帝国大学が閉鎖的、硬直的な学部教授会の自治にこりかたまって社会的なニーズにたいして背を向けてきたという最大の構造的問題。皮肉なことにこの問題はつねに、それを放置したまま地方国立大学、弱小私立大学だけが自由競争の名のもとに改革ゲームに無益に翻弄されながら結局は切り捨てられ地域社会、経済の人的基盤の維持・再生産も解体するにまかされているという問題につながっている。

 これらの本質的な大筋だけでもたくさんあって錯綜しているのだが、現在の大学「改革」論議はこのような困難な大問題はすべて先送りすべく教育学部のリストラ、国立大学の統廃合、独立行政法人化といった問題に奇妙に歪められている。だが今後、初等・中等教育の少人数学級化を推進するならば、なぜ教育学部のリストラが必要なのか。また、経済界では銀行には合併による規模の利益ははたらくが証券会社には規模の利益はないというように、統廃合するかしないかは経済合理主義によって判断されるべきものであるが、大学を統廃合することにいかなる規模の利益があるのかいちども経済合理的な説明を聞いたことがない。それは「市場原理主義」的な妄信であろう。さらに、国立大学の独立行政法人化というのは国家公務員25%削減という公約の辻褄合わせのためにおろされてきた政策であって、如上のさまざまな大学・教育をめぐる問題状況の解決策となんら関連がないところから出てきたものにすぎない。

 そして、この矮小化された次元でもさらに愚昧なねじれを重ねている。そもそもタテマエとしては文部省の国家統制から自立した法人格をもつことによって「大学の自治」を確立するための独法化であったはずだが、親方日の丸意識のつよい守旧派教員層からの猛反発を受けるとともに、依然として戦前の意識レベルにある自民党の一部文教族(権力の中枢からはずれている)による国家統制の強化への圧力によって、財政面では国家は面倒見が今よりもさらにわるくなるが管理統制の権限のほうはもっと強化してゆくという驚くべき方向に傾いている。

 独立行政法人などという特殊法人と名称だけすりかえたものにして、国立大学を文教官僚や経済官僚の天下り先にするなどは愚の骨頂である。それは特殊法人によって膿のたまりにたまった平成日本の腐敗社会に拍車をかけるだけでなく、大学が腐敗天下り官僚に私物化されその監視下におかれるようになれば、自由な研究の雰囲気などというものが圧迫されるのは不可避である。「失われた十三年」の金融・財政政策と同様に、文教政策においてもまた「教育百年の亡国の計」をひた走っているのだ。

 ここでは、しかし、あれもこれもと列挙して問題の大きさと複雑さに嘆息だけしていても仕方がないので、三つの大問題群の関連しあうなかから、さしあたり現実的な動きに結びつけることが可能な論点を浮かび上がらせてみたい。ひとつ動き出せば、それが糸口になるはずである。

 

2 先進諸国で異常な日本の学費値上げと奨学金切り詰め

 なぜか先進諸国、新興諸国のなかで日本政府だけが親の負担を重くする方向に突き進んでいる。

 たしかに政府・民間をあわせた研究費そのものは日本は群を抜いて多い。だがそのうち政府の負担する割合は日本だけ20%程度でぎゃくに群を抜いて低い。米独仏英は3040%ある。また、国公私立をあわせた大学が研究費を使っている割合20%と政府系研究機関の9%をあわせると、さしひき9%は民間で肩代わりしていることになる。しかし、この大学と政府機関の研究費を負担している民間部門とは企業よりも圧倒的に家計である。つまり学費による負担の部分が大きい。米独仏英はいずれも大学と政府系研究機関の研究費の使用割合を政府負担割合で十分にカバーしている。日本だけが親や学生による学費負担にしわ寄せがなされている異常な構図がくっきりと浮かび上がる。

 

 (註)この点については拙稿「カリキュラム改革に関連して」、『教員がつくりかえる大学』人文社会諸学の専門教育に関する研究、1999年度 茨城大学教育改善推進費によるFD研究プロジェクト報告書、p.91(http://magellan.hum.ibaraki.ac.jp/suksaa/PDFs/1-9rep.pdf)参照。

 

 周知のように1980年代いらい国立大学の学費はどんどん値上げされてきた。このことは、東大生の親の平均所得のほうが私大生の親の所得より高いということで、なるほどもっともな話である。しかし、よくよく考えてみると、国立大学というのは東大・旧帝大クラスだけからなるのではない。地方国立大学(とりわけ旧二期校クラス)のばあいはどうなのか。いま手もとに正確なデータがあるわけではないが、東大・旧帝大クラスの親の平均所得と同断ではないことは容易に推察されよう。

 しかも、平成不況のなかで東京一極集中がすすみ地方経済の地盤沈下がすすんできた。したがって、地方在住の親の平均所得はますます不利になっていく傾向がある。また、東京をはじめとする大都市部には学生アルバイトのクチもたくさんあるだろうが、地方都市となるとなかなかそうもいかない。

 このようなことを少しでも考えてみれば、国立大学の学費が一律で値上げされてきたことが、地方の国大生の就学条件の悪化ということをいかに顧みないものであるかがうかがえよう。

 また私立大学の学生にとっては奨学金制度の貧弱さが、これまた先進諸国のなかでは際立っている。私立大学への国家による助成金はあまりふやさないほうがよいという考え方もあるが、私大生への奨学金というかたちで行われるべきなのである。しかし、現実には奨学金制度は無利子から有利子のものへと転換され、学生や親の負担へのしわ寄せがますます重くさせられようとしている。

 日本におけるこれらの政策が、どれほど現実にもとづかない観念的な酷い政策路線であるかは、たとえば小泉改革のモデルとされているニュージーランドとの比較をしてみれば愕然となるほどである。

 ニュージーランドでは1984年に労働党政権のもとで新自由主義政策が推し進められ、その一環として国立大学の法人化も行われた。その結果、学費がそれまで無利子の奨学金制度によって実質ゼロだったのが最低で年間1000ニュージーランド・ドルになった。たしかに分母がゼロであれば無限大の増加ではあるが、1ニュージーランド・ドルは約50円、つまりわずかに年間五万円にすぎない。それですらこうした政策は悪い成果しか生み出さなかったと反省されているという(「資料:ニュージーランドの行政改革と高等教育および科学研究への影響」、『世界』2000212月号、参照)。たほう日本では80年代から国立大の学費は値上げがはじまり、すでにしてニュージーランドの十倍の水準(現在4968百円)になっているのである。しかも、このうえさらにニュージーランドが反省している過去の政策を模範として、独法化によって国庫負担を切り下げ、学費を切り上げていこうというのである。

 その昔、苦学生とか勤労学生いうことばがあった。家庭の事情で親に学費や生活費の負担をかけられない学生のことである。しかし、体力と勤勉ささえあれば学費の安い国立大学に進学して奨学金とアルバイトでなんとかやっていけたのである。むろん、かれらは学生全体の中では一部の割合を占めるにすぎない。しかし、現在のような何十年に一度という長期不況の時代にはそういう学生の割合はふえざるをえない。だが、いまの時代、地方の国大生に額面通りそのようなことが可能であろうか。学費は私立大学にかなりの程度近いところまで値上がりしてきている。アルバイトも地方都市ではさほどあるとはかぎらない。そして、そこに奨学金の有利子化などといったことがかぶさってくることになれば、苦学生、勤労学生などとてものことやっていけなくなる。それでもやっていけるくらいなら、はじめから東大でもどこでもトップレベルで合格できるであろう。

 このように、国立大学の一律的な学費値上げ、私大生もふくめた奨学金制度の改悪は、分厚い中産階級であるとか地域社会、経済をになってゆく人材育成の機会をいちじるしく狭めてゆき、地域社会、経済の地盤沈下を促進するような効果をもつ政策にほかならないのである。

 

3 独立行政法人化は「市場原理主義」ですらない

 国立大学の独立行政法人化をめぐる議論の前提となっているのは、国立大学はほんとうは民営化したほうがよいのだという認識である。これは、ハーバード大学をはじめとする米国の一流大学がすべて私立大学だということから短絡的にでてきた議論である。

 しかし、米国には日本の地方国立大学にあたるものとして州立大学というものがある。いうまでもなく合州国 United Statesにおける「州 state」とはほんとうは「邦」であり「国家」である。ここでは、私大にゆけない学生のために税金(公的資金)をつかって公共財・公共サービスとして大学教育が供給されている。一流私大の学費は日本円にすればなんと三百万円程度にもなる。これでは日本でいえば東大生の親なみにエリート層の出身でなければ、とてものこと進学することなどできない。しかし、そのために「市場原理主義」の祖国のはずのアメリカ合州国には州立大学が存在しているのである。ただし、教育レベルは私大よりも低い。安かろう悪かろうということで「市場原理」と折り合いが保たれているわけである。

 こうしてみると、東大・旧帝大クラスと地方国立大学とを一律に括ったうえで、ほんらいは国立大学は民営化したほうがいいのだと脅しつけ、それがいやなら独法化ぐらいは我慢しろ、というじつに歯に衣着せぬ因果の含め方で進められてきたこの間の政策過程が、地方国大のもっている属性をまったく忘却した議論だということは歴然としている。

 東大・旧帝大クラスを私大化することに抵抗することはたしかに反動的であろう。しかし、地方国大は一律に議論すべきではない。それは、米国流の「市場原理主義」からすらもまったくかけはなれた暗愚な政策である。

 

4 金満大国日本の研究・教育・文化への極端な出し惜しみ

 ヨーロッパ諸国はもちろんのこと米国でも、私立大学であっても税金(公的資金)を助成金につかっている規模は日本の比ではない。よく取り上げられる指標として、高等研究教育に支出される公共財政支出が国民総生産にしめる割合というのがある。これが欧米ではだいたい1%前後の水準なのにたいして、日本はなんとその半分の0.5%水準なのである。額にしてだいたい23兆円といったところである。

 こういう天文学的数字を並べるだけでは実感がともなわないから、ほんの一例としてつぎのような数字もあげてみよう。すなわち、公務員の定数削減ということと連動して、大学の教職員の定数削減への圧力がつづいてきた。その結果、驚くべきことになってしまった。欧米では研究者一人あたりにつく事務員や秘書(研究支援者数)などの平均数がだいたい11ぐらいなのに対して、日本ではなんと教官一人に対して0.2人になっているのである(1997年の数値。『科学技術白書』各年版、2-2-15図)。こうして雑用におわれた「厳しい環境」におかれることによって、大学の「国際競争力」が強化されるとでもいうのであろうか。

 財政赤字だからこれ以上出費できないのか? 学費値上げもせざるをえないのか? そんな財務官僚の言い分にだまされてはそろばん勘定に弱すぎるというものである。公共事業には国だけで8兆円、地方20兆円、財政投融資40兆円をあわせると70兆円ちかくが投入されている(2000年度)。それがいっこうに景気浮揚につながらないまま財政赤字を膨らましてきたのだが、70兆円のうちのほんの3%を削減してそれを高等研究教育に振り向けるだけで、それでいっきょに欧米なみになることができるのである。

 日本政府の文教政策の経済的な非合理性、異常性にマスコミも一般納税者もはやく気づくべきだ。

 

5 「痛み」をともなう大学改革は不可避

 いつまでたってもこういう経済的な異常性に気づかないでいるのは、たしかに政治家にも選挙民にもマスコミにもそういう見識がないからであろう。しかし、一般社会にそうした見識がないのは、なによりも当事者たる大学につよく明確な意志と、その表現がないからである。

 となると、話しは大学自身にもどってくる。かくも意志も知性も衰弱しきった大学の改革は必要である。東大・旧帝大の硬直的な学部教授会自治を真の「大学自治」に改革すること(それで私大、地方国大は右にならえだ)、無試験入学化と卒業要件の厳格化、大学大衆化にあわせた教育カリキュラム・組織体制づくり、などなどである。

 もちろん、これらの改革を性急にごり押しするためと称してチェック・アンド・バランスの制度のないまま学長トップダウン方式を導入するなどということは、日本社会の土壌のなかでは旧ソ連や北朝鮮すなわち戦前型の日本のような機能不全に陥る制度しか生みださないということは銘記されるべきである。必要なのはチェック・アンド・バランスのもとでのトップダウン方式を日本社会に定着させることだ。

 いまの大学人には真の「大学自治」とはなにかを大真面目に議論する気風もなければその能力もなくなっている。その意味では「痛み」なしに改革をすませることは不可能のようだ。とはいえ恐ろしいことには、いまの大学人は外科手術の「痛み」とたんなる傷害による「痛み」も区別がつかないほど意識が朦朧としているふしがあるのだが。

 

6 おわりに

 現在、デフレ経済にもかかわらず公共料金と同様に学費ばかりが国公私立をとわず値上げされていく事態というのは、日本政府がなんら戦略的整合性もないままに非有機的にすすめている国立大学の独立行政法人化や奨学金制度の改悪とも相互に関連しているものである。学費値上げ、奨学金制度改悪、私立大学・地方国立大学の切り捨てを批判し、先進諸国並みに高等教育・研究予算の倍増を要求することは、個別大学ごと、学生とその保護者だけ、教職員だけの利害にかかわることではない。全国民的な教育百年の計の問題である。しかも、これはいささかも経済合理主義を否定するものではない。かえって「市場原理主義」による経済合理主義への背反、それによる文化破壊的な文教政策をこそ批判するものなのである。(20021119日 『情況』20033月号)

 

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